[萌ゆる神の国!] 志賀島の金印
(p.17) 当時の中国の支配者は漢 ( 秦の次の王朝 ) で、 使者と貢ぎ物を送ってきた日本の倭国 ( 倭奴国とも ) に対して、 金印を授けた記録が残っています。 「漢の倭の奴の国王」 (漢倭奴国王)、 というやつです。 社会科のテストに出ましたね。 これが紀元57年。
※ 「当時」 が指す年代が不明瞭です。 直前の文を指しているなら、 「弥生時代にあたる紀元後 2世紀ごろ」 ということになります。
ここでは 「漢 ( 秦の次の王朝 ) 」 と、 わざわざ注釈付きで書いてますから、 前漢を指しているのでしょう。 前漢は、 おおむね紀元前の王朝です。
また、 漢委奴国王印 ( 志賀島の金印 ) の時期は後漢です。
※ 秦から西晋までの中国王朝を挙げておきます。
秦: 紀元前 778年 ~ 紀元前 206年
漢 ( 前漢あるいは西漢 ): 紀元前 206年 ~ 紀元後 8年
新: 8年 ~ 23年
漢 ( 後漢あるいは東漢 ): 25年 ~ 220年
魏、呉、漢 ( 蜀あるいは蜀漢 ) ( 三国時代 ): 221年~
晋 ( 西晋 ): 265年~
「金印を授けた記録」 というのは後漢書のことです。
『後漢書』 東夷傳
建武中元二年、 倭奴國奉貢朝賀、 使人自稱大夫、 倭國之極南界也、 光武賜以印綬。
安帝永初元年、 倭國王帥升等獻生口百六十人、 願請見。
(劉宋 范曄)
( 読み下し: 建武中元二年、 倭奴國は奉貢朝賀し、 使人は自ら 「大夫」 と称す、 倭国の南界を極むるや、 光武賜うに印綬を以ってす。
安帝永初元年、 倭国王の帥升等は生口百六十人を献じ、 請見を願う。 )
※ 「大夫」 ( たいふ ) 周の職名。 士の上、卿の下。 ( 広辞苑 第四版 より )
「分かれて百余国を為す」 に書いたように、 周の時代 ( 遅くとも孔子の時代には)、 すでに外交を持っていました。
※ 周: 紀元前 1046年ごろ ~ 紀元前 256年、 ただし、 紀元前 770年からは春秋戦国時代。
口語訳:
「建武中元二年 ( 57年 ) のこと。
倭奴国は、 貢ぎ物を奉り ( たてまつり )、 朝賀 ( 諸臣が参朝して天子におよろこびを申し上げること ) した。 ( 天子のところにやって来た、 その ) 使者は、 自分の官職を 「大夫」 ( たいふ ) であると自称した。
倭国が南の世界を極めて ( その倭国が、 周以来の臣下であるという立場をとって天子に挨拶に来たので )、 天子の光武は喜び、 褒賞として印綬 ( 印と紐 ) を与えた。」
「永初元年 (107年) のこと。
倭国王の帥升たちは、 奴隷160人を献上し、 天子に謁見を願いでた。」
さて。
「使者と貢ぎ物を送ってきた」 だけではありませんね。
後漢書には 「朝賀」 と書いてありますから、 使者は漢の天子にお目通りして、 天子に対するお祝いの言葉を述べています。
『 「漢の倭の奴の国王」 ( 漢倭奴国王 )、 というやつです。』
まず、 うっかりミスでしょうけど、 印面は 「漢委奴国王」 です。 倭じゃありません。
つぎに。 この金印を与えた建武中元二年の記事には、 「倭奴国」 と 「倭国」 が出てきます。 文脈からは、 倭奴国=倭国であるようです。 また、 朝貢したのは倭奴国ですから、 その褒美に金印を貰ったのも、 倭奴国です。
なお、 記事中に奴国は出てきません。
ということは。 印面の 「委」 が 「倭」 のことであるとするならば、 「漢委奴国王」 は 「漢 (の配下の) 倭奴国 (の) 王」 という意味ですね。
なぜか、 「漢の (配下の) 倭の (配下の) 奴の国王」 と、 細切れに読む習慣になってます ( この本もそうです ) が、 史料上には 「後漢時代、 倭国の配下の奴国」 という存在があったわけではありません。
永初元年 (107年) の記事は、 まぁ、 ついでに出しておきました。 f(^^;
この記事では、 はっきりと、 倭国王を含む複数名が天子に謁見を願い出てきたと書いてあります。
後漢書によるならば、 倭国王が後漢の都 ( 洛陽 ) まで訪れていたのです。
ちなみに、 「倭奴国」 の名前は、 中国の後世の史書にも出てきます。
・旧唐書 (くとうしょ) 東夷伝: 「倭國者 古倭奴國也」 ( 倭国は、 いにしえの倭奴国なり。 )
・新唐書 (しんとうしょ) 東夷伝: 「日本 古倭奴也」 ( 日本は、 いにしえの倭奴なり。 )
# 旧唐書・新唐書については、 また後で書くことになるでしょう。
余談ですが…
現代では、 何の変哲もない田舎の小島というイメージの志賀島。 しかし、 全国の綿津見 (わたつみ) 神社の総本宮である志賀海神社があります。 本来の祭神は、 ワタツミ三神 ( 底津少童命・中津少童命・表津少童命 )。 いわばワタツミ神の聖地なんです。
# ワタツミ三神は、 日本書紀のイザナギが禊をするところの 「一書」 によれば、 ツツヲ ( 筒男 ) 三神と交互に生まれたことになっています。 ということは、 じつはワタツミ三女神なんじゃなかろうかと思ってます。 f(^^;
また、 この 「一書」 によれば、 アマテラスの姉ということになります。
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