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2007年8月21日 (火)

光瀬龍 「歴史そぞろ歩き」

光瀬 龍 の著作に 「歴史そぞろ歩き」 (1989年8月発行) というのがあるんだそうです。
多少 SF を読む私ですが、 光瀬氏の歴史ものは 「夕ばえ作戦」 あたりを齧っただけで、 この本はまるで知りませんでした。

ブログ 「孤独な散歩者の妄想」  の 「 『光瀬 龍の 「東日流外三郡誌」 考』 から」 より。

その中に、 『「東日流外三郡誌」 考』 が、 書き下ろしで、 文庫頁約35頁 (p259~p294)で巻末に掲載されている。

光瀬 龍は、 先年八十四歳で亡くなった自分の母親が、 生前しばしば 「東北に長髄彦が来でたつこと、 おらだ聞かされてたもんだ」 と言っていたと書き、 光瀬の郷里の岩手県南部の前沢地方では、 「聞かされてたもんだ」 は、 「教えられていた」 に非常に近い。 と記述している。
そして、 《東日流外三郡誌》 に書かれている事を母親が、 知っていたのを不思議としていて、 生前に詳しく聞いておかなかった事を悔やまれるとしている。

1980年頃まで、 長髄彦の伝説が語り継がれていたらしいことに、 驚きです。

東日流外三郡誌では、 「安日彦 (あびひこ) ・長髄彦」 という兄弟セットの形で登場するのが常らしいので、 あるいは、 光瀬氏の御母堂が聞かされてた話は、 東日流外三郡誌のものとは違うのかもしれませんね。

次は、 同ブログページから、  『「東日流外三郡誌」 考』 の引用部分です。 ( 光瀬龍の文章の孫引きということになります。 )

偽書というものが成り立つのは、 政治的理由か経済的理由かどちらかである。
《東日流外三郡誌》 の場合、 商品価値としての経済的理由は有り得ないから、 政治的理由であるとして、 それが成立し得るのは、 政治権力の正当性を自らうったえる場合にほとんど限られる。

( しかしながら… )

自らの正当性を主張する当の政権が存在していない以上、 政治的な偽書を作る意味はない。

さすが光瀬氏、 達見です。
言われてみれば 当たり前のことですが、 それに気付かないのが凡人というもの。 f(^^;

その凡人にも、 その後の歴史から学んだと思えることが一つだけ。
「自らの正当性を主張する当に存在している政権にとっては、 政治的に偽書を仕立てあげる意味がある。」 ( 都合の悪い文書は、 偽書だということにしてしまえば、 無かったことにできる。 )

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