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2005年8月20日 (土)

倭≠大和

倭≠大和、 正確に言うならば、 「倭」は必ず「大和」のことであるとは限らない、 というしごくあたりまえのことです。 そのあたりまえのことが、 例えば日韓歴史共同研究報告書でもないがしろにされてしまっています。

そこで、 倭≠大和 の例をいくつか挙げておこうと思います。

 

論衡 [ろんこう]

  • 恢国篇第五六: 成王時 越裳獻雉 倭人貢鬯
    成王の時、 越裳雉を献じ、 倭人暢草を貢ず。
  • 儒増篇第二六: 周時天下太平 越裳獻白雉 倭人貢鬯草 食白雉服鬯草 不能除凶
    周の時は天下太平、 越裳は白雉を献じ、 倭人鬯草を貢す。 白雉を食し鬯草を服用するも、 凶を除くあたわず。

成王の時というと、 紀元前12世紀といわれています。 最近、 弥生時代の始まりが早かったことがわかったといっても、 この頃はさすがにまだ縄文時代。 そんなときの「倭人」を「大和朝廷の臣下の人」と解釈するむきは、 さすがに無いでしょう。

 

山海経 [せんがいきょう]

山海経の成立はよくわかっていないのですが、 紀元前5~3世紀頃に原型が成立し、 紀元後3世紀頃までに完成したのだろうといわれています。

  • 第十二 海内北経: 蓋國在鉅燕南 倭北 倭屬燕
    蓋国は鉅燕の南、 倭の北にあり。 倭は燕に属す。

蓋国というクニは、 巨大なる燕 (紀元前13~3世紀) の南、 倭の北にあるというのです。 そして、 倭は燕の臣下の立場を取っていたと。

年代がはっきりしないのですが、 燕の時代ですから紀元前であることは間違いないでしょう。 この倭についても、 大和朝廷だと主張している人はいないようです。

 

後漢書

後漢書東夷伝では、建武中元二年の金印授与 (志賀島の金印) の記事が有名ですが、 もうひとつ。

  • 東夷伝: 安帝永初元年 倭国王帥升等 献生口百六十人 願請見
    安帝の永初元年 (AD107年)、 倭国王の帥升たちは、 生口百六十人を献上し、 謁見を願い出た。

倭国の帥升王が、 中国の天子に面会したと取れる記事です。 (渋谷雅男著「日本書紀を批判する―記紀成立の真相」)

この倭国も、 現代では大和朝廷だと主張する人はいないでしょう。 「日本書紀を批判する」によれば、 皇暦で計算すると景行天皇の時代に当たるそうですが。

 

三国志

  • 韓伝: 韓在帶方之南 東西以海爲限 南與倭接 方可四千里
    韓は帯方の南に在り。 東西は海をもって限りとなし、 南は倭と接する。 方4千里ばかり。
  • 倭人伝: 倭人在帶方東南大海之中 依山島爲國邑
    倭人は帯方の東南の大海の中に在り。 山島に依りて国邑をなす。

まず、 倭人伝の前にある韓伝の記事ですが、 倭人伝の解読に挑む多くの人々が、 この記事の存在に気付いていないのではないでしょうか。 「南は倭と接する」、すなわち韓半島の南端部にも倭があったことを記録しています。 倭人伝中の「その北岸」は、 「倭の北岸」という解釈で問題無いわけです。 また、 韓半島の東西幅は約4千里となっていて、 その3倍ほどが邪馬台国への行程の総距離なわけです。

倭人伝のほうでは、 倭の大体は海の中の島にある、 と言っています。 韓半島南端部の倭は、 そのごく一部なのですね。

さて、 この倭は、 イコール大和であると主張する人が少なくありません。 が、 論証できた人はいないようです。 すくなくとも三世紀に韓半島まで大和朝廷の勢力が及んでいたと主張する人は、 現在ではいないと思います。 (神功皇后の「三韓征伐」をそれに当てたいと願うむきもあるようですが、 きちんと論証されているのにお目にかかったことがありません。)

 

旧唐書 [くとうしょ]

  • 東夷伝 倭國: 倭國者 古倭奴國也 去京師一萬四千里 在新羅東南大海中 依山島而居
    倭国はいにしえの倭奴国なり。 京を去ること1万4千里、 新羅の東南の大海の中にあり。 山島に依りて居住する。
  • 東夷伝 日本: 日本國者倭國之別種也 以其國在日辺 故以日本爲名 或曰 倭國自惡其名不雅 改爲日本 或云 日本舊小國 併倭國之地
    日本国は倭国の別種なり。
    その国、日の出るあたりにあることをもって、 ゆえに日本を名とする。
    あるいは曰く、 「倭国、 自らその名の雅ならざるをにくみ、 かえて日本となす」、 と。
    あるいは言う、 「日本はもとは小国、 倭国の地を併せたり」、 と。

倭国と日本国を別々に書き、 さらに「日本国は倭国の別種なり」と断言しています。 この「日本国は倭国の別種なり」という一文に出てくる「倭国」を大和朝廷のことだと言う人はいないでしょう。

 

新唐書 [しんとうしょ]

  • 東夷伝 日本: 日本 古倭奴也
    日本はいにしえの倭奴国なり。
  • 東夷伝 日本: 惡倭名 更號日本
    倭の名をにくみ、 かえて日本と号す。
  • 東夷伝 日本: 或云 日本乃小國 為倭所并 故冒其號
    あるいは言う、 「日本はすなわち小国、 倭のあわせる所となり、 故に其の号をおかす」と。

中国史書では、 ここに来てようやく 倭=大和 が成立するようです。

旧唐書と違って日本伝しか載っていませんが。 しかし、 日本国と倭国の合併劇があったらしいことは、 やはり書かれています。

 


以上、 いくつか例を挙げました。 また、 今回は書きませんが、 日本の史料にも 倭≠大和 であろうと思われる例が散見されます。 本稿で肝心なことは、 「倭といえば大和のことであるとは限らない」 という一点です。

日韓歴史共同研究報告書で、 韓国の学者は「高句麗の好太王の時代に、大和朝廷が韓半島に侵出していたはずは無い。 だから韓半島に倭地は無かった」というような、 旧来からの主張を繰り返しています。 好太王碑に、「倭人が国境に満ちあふれ、わが国の城等を壊すので困っております」 という新羅の使いの悲痛な訴えが、 しっかりと彫られているのを無視して。 好太王碑に出てくる倭は、 イコール大和であると (論証抜きで) 決め付けてしまったため、 肝心の石碑を無視する結果になってしまったのでしょう。

 

初出: 2005年08月20日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20050820221728

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