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2005年6月の2件の記事

2005年6月12日 (日)

日韓歴史共同研究報告書: 好太王碑: 臣民にしたのは誰か?

日韓の古代史を考える史料として最大のものは、4~5世紀のことを記した高句麗の広開土境好太王碑でしょう。 「日韓歴史共同研究」でも、大きく取り上げられています。 その中でもっともホットな議論は、永楽5年項の中の辛卯年記事です。

まず、石碑に刻まれたその部分を掲載しておきます。 これは永楽5年項の末尾にあたります。
※ ここで [] 付きの文字は、読みにくくなってしまっていて人によって判読にブレのあるもの。 また、□は、読めなくなってしまっている文字です。 なお、新字体に直してあります。

百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡[海]破百残□□新羅以為臣民

※ 「百残」は、「百済」のことをおとしめて書いている (卑字) と思われる。

この石碑は、高句麗の王様の死後に、主にその功績を称えるために作られたものです。 ですから、主語無しに「百残新羅旧是属民」 (百済と新羅は、もとは属民であった) とあるとき、どこに属していたのかといえば「高句麗の属民であった」ことになります。 また、問題の一文は「永楽5年」で始まる段落に書いてありますから、永楽5年 (西暦395年) に王が行った事績を称えたものであるはずです。

高句麗中心に書かれているのですから、前のほうに出てくる「朝貢」も、朝貢先は書かれていませんが当然高句麗です。 「朝貢」までを訳せば、「百済と新羅は、もとは属民であったので、高句麗に朝貢してきていた」となるでしょう。 ここの解釈には、日韓で相違はありません。

解釈が分かれるのは、「而倭以来辛卯年」からです。 まず、明治以来の日本側の解釈は、おおむね次のようです。

「辛卯年(391年)に、倭が海を渡ってやってきて、百済・□□・新羅を破って、倭の臣民にしてしまった」

しかし、好太王の功績を称えているはずの碑文としては、ヘンでしょう。 永楽5年 (395年) の治績として、過去の辛卯年 (391年) にあった他国の侵略記事を載せるとは。 (もちろん、他の年次には、そんな記事はありません。)

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2005年6月11日 (土)

日韓歴史共同研究報告書

3年間かけて行われていた日韓歴史共同研究の報告書が、 6月10日に公開されました。 → http://www.jkcf.or.jp/history/index.html

古代史の部分を斜め読みしてみて思ったこと。 「これを『共同研究』というのか? これでは、 同じ教室で勝手に論文を書いていただけではないか? f(^^;

結論が一致することは、 そう簡単にはありえないとは思っていました。 しかし、 せめて、 「資料に対する両国の解釈はこれこれ相違している。 それは、 それぞれの根拠がなにがしであるからである」 というような、 問題点を明確にしてくれるような報告書を期待したのですが。 日本と韓国で別々に論文を、 それも旧来のままの内容から半歩も踏み出していないようなものを掲載されるとは… orz

もし読んでみようと思った方は、 先に座談会記録を見たほうが面白いかも。 論文と違って、 それなりにやりあってるので、 相違点が分かりやすいと思います。

 

初出: 2005年06月11日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20050611232309

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