日韓歴史共同研究報告書: 好太王碑: 臣民にしたのは誰か?
日韓の古代史を考える史料として最大のものは、4~5世紀のことを記した高句麗の広開土境好太王碑でしょう。 「日韓歴史共同研究」でも、大きく取り上げられています。 その中でもっともホットな議論は、永楽5年項の中の辛卯年記事です。
まず、石碑に刻まれたその部分を掲載しておきます。 これは永楽5年項の末尾にあたります。
※ ここで [] 付きの文字は、読みにくくなってしまっていて人によって判読にブレのあるもの。 また、□は、読めなくなってしまっている文字です。 なお、新字体に直してあります。
百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡[海]破百残□□新羅以為臣民
※ 「百残」は、「百済」のことをおとしめて書いている (卑字) と思われる。
この石碑は、高句麗の王様の死後に、主にその功績を称えるために作られたものです。 ですから、主語無しに「百残新羅旧是属民」 (百済と新羅は、もとは属民であった) とあるとき、どこに属していたのかといえば「高句麗の属民であった」ことになります。 また、問題の一文は「永楽5年」で始まる段落に書いてありますから、永楽5年 (西暦395年) に王が行った事績を称えたものであるはずです。
高句麗中心に書かれているのですから、前のほうに出てくる「朝貢」も、朝貢先は書かれていませんが当然高句麗です。 「朝貢」までを訳せば、「百済と新羅は、もとは属民であったので、高句麗に朝貢してきていた」となるでしょう。 ここの解釈には、日韓で相違はありません。
解釈が分かれるのは、「而倭以来辛卯年」からです。 まず、明治以来の日本側の解釈は、おおむね次のようです。
「辛卯年(391年)に、倭が海を渡ってやってきて、百済・□□・新羅を破って、倭の臣民にしてしまった」
しかし、好太王の功績を称えているはずの碑文としては、ヘンでしょう。 永楽5年 (395年) の治績として、過去の辛卯年 (391年) にあった他国の侵略記事を載せるとは。 (もちろん、他の年次には、そんな記事はありません。)
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