カテゴリー「古代史」の39件の記事

2009年11月11日 (水)

[NEWS] 纒向遺跡で大型建物跡を発見

どうして、 こうも天皇家の歴史を潰そうとしたがるのかねぇ。 奈良の纒向で宮殿が見つかったとなれば、 まずは歴代天皇のどなたかのものではないかと考えるのがスジでしょう。 それこそ、 陵墓同様に皇室管理になったとしてもおかしくないのに。

asahi.com(朝日新聞社): 3世紀前半の大型建物跡、 邪馬台国の中枢施設か 奈良
2009年11月10日22時7分

奈良県桜井市の纒向(まきむく)遺跡(2世紀末~4世紀初め)で、 3世紀前半(弥生時代末~古墳時代初め)の大型建物跡1棟が見つかった。 市教委が10日発表した。 同時期の建物としては、 国内最大の面積で、 邪馬台国の女王・卑弥呼が君臨した時期にあたり、 専門家は「邪馬台国の中枢施設の可能性がある」と指摘している。

 

佐賀新聞の情報コミュニティサイト ひびの: 奈良・纒向遺跡に大型建物跡 卑弥呼の宮殿か
2009年11月10日更新

 石野博信兵庫県立考古博物館長(考古学)は「畿内説に立てば、 卑弥呼の宮殿とみていいだろう。 これほど計画的に配置された建物群は同時期に国内で例がない」と指摘。 これに対し、 九州説の研究者は「遺跡全体の発掘が進んでおらず、 今回の発見だけで卑弥呼と結び付けるのには無理がある」と反論している。

 床を支える束柱つかばしら跡もあり、 黒田龍二神戸大准教授(日本建築史)が市の依頼で復元した結果、 高さ約10メートルの入り母屋造りと想定された。 市教委は「纒向遺跡の中枢部が明らかになった。 中心的な人物がいたと考えて間違いない」としている。

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2009年2月 9日 (月)

[わんくま同盟 名古屋勉強会] 第6回 (2009/02/07) の資料

20090207_wankuma01 第6回でも LT ( Lightning Talk ) ってことで、 前回に味をしめてさらにヨタ話を f(^^;わんくま同盟 勉強会の資料

LT で喋ったことですが、 わからなくなったらオリジナル、 原本に当たってみろ! ってのは、 どこの世界でも同じなんです。

ダウンロード用の資料には、 LT ではお見せできなかった資料が 2ページ付いてます。

なお、 この資料は、 次の環境で作成しました。
・ Windows 7 beta @ Eee PC 1000H
・ StarSuite Impress ( Power Point の Star Office 版 )
  ※ PDF への変換も StarSuite です。

で。 じつは外部モニターへの接続試験をせずに、 当日を迎えちゃったので、 ドキドキもんでした。 実際にプロジェクターを繋いでみると… プロジェクターを認識して、 勝手に解像度が切り替わって両方に出力されました。 いや、 びっくりです。

20090207_wankumasan オマケ。
当日の捕獲物、 「わんくまさん?」 500円 f(^^;
通販とかはしてないハズなので、 欲しい人はわんくま勉強会に参加してげっとだw

( 2009/02/11 追記 ) 右上の写真は、 当日のメインw である懇親会の鮎 

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2008年9月15日 (月)

(続) 詳説日本史研究 改訂版

前の記事で、 池田信夫 blog によれば、 詳説日本史研究 改訂版 に 『「倭人伝」 という書物はない。 その内容も後代になって書かれた伝聞や推測で、 信頼性は低い。』 と書かれている、 と紹介しました。
が、 これは誤りでした。

≪Amazon≫詳説日本史研究 改訂版 ようやく 詳説日本史研究 改訂版 を入手出来たので、 該当する記述を探してみました。 「倭人伝」 について書かれているところから、 二箇所ほど引用してみます。

( p.28 本文 )
( 前略 ) 三国時代をむかえた。  この時代の歴史書である 『三国志』 のなかの 『魏志』 倭人伝には、 3世紀前半から中葉の倭の情勢がかなり詳しく書かれている。

( p.28 脚注 )
正確には 『三国志』 のなかの 『魏書』 の 「烏丸鮮卑東夷伝」  のなかの倭人の条のことで、 倭人に関する記載だけで一伝が立っているわけではない。 『三国志』 は西晋の陳寿が 3世紀後半に著したもの。

そのほかかなりの量の記述があり、 倭人伝の解釈についてはいろいろ問題がある ( 意見が分かれている ) とされています。 しかしながら、 「後代になって書かれた」 という記載を見つけることはできませんでした。
引用したように、  「3世紀前半から中葉の倭の情勢」 を 「3世紀後半に著したもの」 であるという記述があるだけです。
また、 倭人伝の全体の内容を、 「伝聞や推測で、 信頼性は低い」 とするような記述も、 見当たりませんでした。

ということで。
池田氏が箇条書きのひとつとして書かれた、

魏志倭人伝」は存在しない:三国志の一書である魏書に「倭人の条」があるだけで、「倭人伝」という書物はない。その内容も後代になって書かれた伝聞や推測で、信頼性は低い。

…という文章を、 私はすべて、  詳説日本史研究 改訂版 からの引用・要約であると受け取ったのですが、 それは思い違いで、 「その内容も~」 という後半のくだりは、 池田氏の意見・主張でありました。
また、 残りの箇条書きの文章については検証していませんが、 引用・要約と、 氏の意見・主張とが、 同様に混ざって書かれている可能性があるでしょう。


※ ちなみに、 詳説日本史研究 改訂版 でも、 三国志によると、 と言いながら、 なんら注釈もせずに 「邪馬台国」 と書いています (p.28)。 三国志によるならば、 「邪馬壱国」 ですね。

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2008年9月 2日 (火)

詳説日本史研究 改訂版

池田信夫 blog より。

変わる日本史の常識

受験勉強のころお世話になった参考書が、 10年ぶりに改訂された。 いろいろ話題になっているが、 古代史がかなり大幅に書き換えられている:

へぇ~。 少しずつは変わってきてるんですね。

世界最大の墓の実態は、 仁徳天皇の陵なのかどうか分からない、 とか。 645年の  「大化の改新」 は存在しなかった、 とか。
何十年前の話だよ、 と思わなくもないですが。 それでも、 学習参考書にそう書かれた、 ってのは一歩前進かと。

しかし、 逆にヘンな記述が増えた部分もあるようで。

・ 「魏志倭人伝」 は存在しない: 三国志の一書である魏書に 「倭人の条」 があるだけで、 「倭人伝」 という書物はない。 その内容も後代になって書かれた伝聞や推測で、 信頼性は低い。

Wajinden01a 『「倭人伝」 という書物はない』 というのは、 そのとおり。
※ しかし、 見出しに 「倭人伝」 と書いてある版本は現存しています

そして、 問題はココ → 『後代になって書かれた』

三国志は、 魏 ( A.D. 220~265 ) を中心とした時代のことを、 魏王朝から禅譲された西晋王朝の命によって、 陳寿 ( A.D. 233~297 ) が編纂した歴史書です。
陳寿は、 魏の時代にも生きていたんです。 さらに、 魏王朝の持っていた歴史資料を正当に受け継いだ、 西晋王朝の資料を使って史書を編纂したはずです。
昭和の歴史を、 昭和生まれの歴史学者が平成に書いたようなものなのに、 それを 「後代になって書かれた」 から 「信頼性は低い」 と言うのでは…
後漢 ( A.D. 25~220 ) のことを、 5世紀になってから范曄 ( A.D. 398~446 ) が編纂した後漢書などは、 まったく信頼するに足りないもの、 とでも言うのでしょうかね。

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2007年11月23日 (金)

Re: 歴史の面白さとは何か? 一人の歴史ミーハーの歴史観

オータムさんが、 歴史について興味深い論考を書いてくれてます
ので、 紹介がてら、 一部ツッコミ f(^^;

 

過去は1つしか存在しないにも関わらず、絶対唯一の「正しい歴史」なるものは存在し得ないのです。理由は簡単で、過去の起こった出来事を伝える情報の大半が欠落しているからです。

そのとおりだと思います。
情報が部分的に失われている… 事実を伝える情報が非可逆的変化を受けていると言ってもいいかもしれません。
非可逆的変化を起こしてしまった情報から、 もとの情報を復元することは不可能です。 できることは、 よりもっともらしい情報を復元すること…。

ちなみに、 私は、  「過去は1つ」 = 「正しい歴史」 だと思ってますので、 私の言い方だと 「正しい歴史は存在するが、 それを知ることは原理的に不可能」 ってことになります。 f(^^;

※ 「歴史」 という言葉には、 過去の変遷・興亡の事実そのものを指す場合と、 その記録を指す場合があります。 ここでの 「正しい歴史」 の歴史は前者です。 ( たとえば、 「歴史書」 は後者です。 )

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2007年11月16日 (金)

「栗は木材界の野生児」

日経夕刊 2007/11/12 の「あすへの話題」 の欄に、 建築家・藤森照信氏が寄せた、 「栗は木材界の野生児」 と題する文章が、 とても興味深い。

三内丸山から栗の柱が、 出雲大社からは杉の柱が発見されたことから始めて、 縄文時代は栗で弥生以降はスギ・ヒノキに変わってきたと言われるがそれは寺院などの大建築に限った話なのだ、 と続きます。

民家のレベルでは、 東日本ではいつまでも栗の時代がつづく。
( 中略 )
江戸時代、 さらに近代に入ってでも、 東日本で山に木を植えるといえば栗がふつうだったという。 私が信州の古老に聞いたところでは栗だけでなく、 きまってナラと一緒に混植しないとうまく育たなかったそうだ。

へぇ~、 近代まで東日本ではクリを植林してたとは!
また、 ナラと混植すると良く育つ、 という古老の話は貴重な伝承だと思います。

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2007年11月 1日 (木)

[萌ゆる神の国!] 卑弥呼って誰?

卑弥呼に該当する人物が、 日本の記録に残っているか…?
ざんねんながら、 この本にも書かれているように、 今のところ謎です。

( p.18 脚注 )
これまで多くの人物比定がなされてきた。 卑弥呼=アマテラス説もそのひとつで、 古代の女王=神話の女王というのはむしろ導き出しやすい想像でもある。

このほかに、 記紀の人物との比定としては、 卑弥呼=シタテルヒメ ( 下照姫・オオクニヌシの娘 ) 説や、 卑弥呼=ミカヨリヒメ ( 甕依姫・九州筑紫の豪族の祖 ) 説、  卑弥呼=ヤマトノヒメノミコト ( 倭姫命・ヤマトタケルの叔母 ) 説、 卑弥呼=ヤマトトトヒモモソヒメノミコト ( 倭迹迹日百襲姫命・第7代孝霊天皇の皇女 ) 説などがある。

文献に残っているなかで最も古いと思われる、 卑弥呼=神功皇后 説が抜けてますねぇ f(^^;

日本書紀は、 卑弥呼=神功皇后 ( じんぐうこうごう ) であると主張しています。
神功皇后は、 第14代仲哀天皇 ( ちゅうあいてんのう ) の妻で、 夫の死後、 摂政になったとされます。
以前 ( 大正末まで ) は、 第15代の天皇であったとされていました。

そして日本書紀は、 三国志の記事を持ってきて、 神功皇后の記事として掲載しています。
卑弥呼の名を伏せて 「倭女王遣大夫難斗米等」 とか 「倭王復遣使大夫」 といった部分を載せているのです。
日本書紀の立場としては、 卑弥呼=神功皇后 だというわけです。

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2007年10月29日 (月)

[萌ゆる神の国!] 邪馬台国はどこ?

江戸時代の学者・松下見林が生み出した、邪馬壱国ならぬ 「三国志の邪馬台国」 などという、 実際の史書に書かれてもいない存在は、 見つからなくてあたりまえだという気がしますが f(^^;

( p.18 ) 前述の 「漢倭奴国王」 の金印は見つかりましたが、 この 「親魏倭王」 の金印はいまだ見つかっていません。 それで、 邪馬台国はどこにあったか、 という論争になっているわけです。

ここは間違っているわけじゃありませんが、 ひとつ突っ込みを。

「親魏倭王」 の金印が見つかれば、 邪馬台国はどこにあったかという論争は、 はたして終わるのでしょうか? f(^^;

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2007年10月27日 (土)

[萌ゆる神の国!] 邪馬台国の卑弥呼?

( p.18 ) さて次に出てくるのが、 有名な 『魏志倭人伝』 と邪馬台国、 卑弥呼です。
漢が滅んだあと、 中国では魏、 呉、 蜀の三国時代となります。 『三国志』 ですね。
そのうちの魏に伝わる歴史書が 『魏志倭人伝』。 このなかに、 倭の強国として邪馬台国があって、 30もの小国を従え、 女王は卑弥呼だ、 と書かれています。

ぇえと、 まずは、 単純ミスと思われるとこから。
× 「そのうちの魏に伝わる歴史書が 『魏志倭人伝』。」
    ↓
○ 「そのうちの魏のことを伝える歴史書が 『魏志』。」

Wajinden01a で、 歴史書の名前としては、 『三国志』 です。
三国志は、 魏書・呉書・蜀書の 3部構成になっています。
魏書 ( 魏志とも言う ) には、 魏そのものと、 魏の周辺国のことが記録されています。 その最後の章にあたるのが 「烏丸鮮卑東夷傳 ( 通称、 東夷伝 ) 」 で、 そのさらに最後の節にあたるのが 「倭人伝」 です。
魏書・呉書・蜀書のそれぞれを独立した歴史書扱いすることはありますが、  ページの途中から始まってたりする 「倭人伝」 を独立した歴史書扱いするのはムリでしょう。

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2007年10月25日 (木)

[萌ゆる神の国!] 卑弥呼が最初の女王?

前の 「[萌ゆる神の国!] 日本で初めて国ができるのはいつ?」 では、 Q の後半を省略して紹介しました。 あらためて全部引用すると、 こうです。

( p.17 ) Q 日本で初めて国ができるのはいつ? 卑弥呼が最初の女王ですか?
A 初めて日本が歴史に登場するのは、 紀元前57年のことです。

この 「卑弥呼が最初の女王ですか?」 という問いには、 A にも、 それに続く解説文にも、 回答が書いてありません。

しょうがないので、 かわりに回答を書いておきましょう f(^^;

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2007年10月24日 (水)

[萌ゆる神の国!] 日本で初めて国ができるのはいつ?

( p.17 )
Q 日本で初めて国ができるのはいつ? ( …後略 )
A 初めて日本が歴史に登場するのは、 紀元前 57年のことです。

まず、 単純ミスから。
紀元前 57年」 ではなく、 「紀元 57年」 ですね。
これは、 本文にあるとおりです。

さて、 この紀元 57年は、 「[萌ゆる神の国!] 志賀島の金印」 で書いたように、後漢書に出てきた倭奴国の件です。 後漢書に日本は出てきません。
日本という名称が海外の史書に出てくるのは、 もっと後の事ですから、 この A ( 回答 ) は、 ちゃんと書けば、 こうでしょう。
「初めて日本列島内の国が歴史に登場するのは、 紀元 57年のことです。」

さらに、  「[萌ゆる神の国!] 分れて百余国を為す」 に示したように、 紀元前 2世紀、 あるいはそれ以前に、 百を越す倭人の国があったと、 中国の史書に書かれています。 ただし、 具体的な国名はでていません。
そこで、 回答は、 さらにこのように訂正する必要があるでしょう。
「初めて日本列島内の国の名が歴史に登場するのは、 紀元 57年のことです。」
( あるいは、 「初めて日本列島内の国が歴史に登場するのは、 紀元前のことです。」 とするか。 )

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2007年10月23日 (火)

[萌ゆる神の国!] 志賀島の金印

(p.17) 当時の中国の支配者は漢 ( 秦の次の王朝 ) で、 使者と貢ぎ物を送ってきた日本の倭国 ( 倭奴国とも ) に対して、 金印を授けた記録が残っています。 「漢の倭の奴の国王」 (漢倭奴国王)、 というやつです。 社会科のテストに出ましたね。 これが紀元57年。

※ 「当時」 が指す年代が不明瞭です。 直前の文を指しているなら、 「弥生時代にあたる紀元後 2世紀ごろ」 ということになります。

Kinnin01a
岡山県工業技術センター提供の画像に着色

ここでは 「漢 ( 秦の次の王朝 ) 」 と、 わざわざ注釈付きで書いてますから、 前漢を指しているのでしょう。 前漢は、 おおむね紀元前の王朝です。
また、 漢委奴国王印 ( 志賀島の金印 ) の時期は後漢です。

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[萌ゆる神の国!] 分れて百余国を為す

(p.17) 弥生時代にあたる紀元 2世紀ごろには、 日本にこうした国が百あまりもできていたことが、 中国の歴史書に書かれています。

これは間違い、 あるいは 「紀元」 の誤植でしょう。

百余国だったのは、 中国の文献にもとづく限り、 1世紀の前半より昔のことです。
おそらくは、 紀元前 2世紀よりも以前のことでしょう。

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2007年10月22日 (月)

[萌ゆる神の国!] 稲作の始まり

(p.17) 縄文時代になると稲作が大陸から伝わり、西日本一帯を中心に広がっていきました。
本格的農耕の始まりです。

ここは、 イネの栽培開始は縄文時代、 という最近の知見が反映されてます。

ただ、 うっかり読むと 「縄文時代の始まりとともに稲作が伝わった」 と受け取ってしまいそうです。
縄文時代の開始は紀元前 1万数千年といった頃ですが、 イネが栽培されていた間接証拠が見つかってるのは、 いまのところ紀元前 4000年くらいです。
2005.02.19 稲作の起源、またさかのぼるのか?

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2007年10月19日 (金)

[萌ゆる神の国!] 日本人のルーツって?

ぼちぼちと読み始めました。
オピニオン書だそーですので、 つまり、 意見を言うだけの本であって、 学術的な本ではないんだそうですから、 その結論についてどうこう言うつもりはないです f(^^;

…なんですが、 議論の前提になっている事実認識が、 けっこう古かったりするので、 そーゆーあたりは突っ込んでおこうかな、 と f(^^;
# 前にも書いたけど、 私が多少なりとも齧ってるとこは古代史なので、 その範囲で。

というわけで、 本文の最初から…

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2007年10月18日 (木)

[萌ゆる神の国!] 神の国ってなによ?

まだちゃんと読んでません。
けど、 「神の国」 とはどういう意味なのか、 どーやらちゃんと書かれてないよーな気がするので… f(^^;

神の国っていうと、 キリスト教に出てくる、 イエスが約束した国?
この本の場合、 そんなはずは無いんであって (w

古くは、 14世紀に書かれた 『神皇正統記』 の冒頭に 「大日本者神国也」 ( おほやまとは、 かみのくになり。 ) と出てきます。
日本は、 アマテラスの血を受け継ぐ天皇が代々統治してきた国である、 神の子孫が治めている国である、 という意味です。 神国とも、 神州とも言います。
# 明治政府が強調した 「天皇は現人神である」 というのも、 神の子孫なら神様なのは当然ってことですよね。

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萌ゆる神の国!

<Amazon> 萌ゆる神の国!

ぉお、 モエタンならぬモユクニですか~ ( ちと言いにくいw )

神の國というからには、 アマテラスさまはもちろん実在で…

…絶望した! アマテラスさまどころか、 神武天皇までフィクション扱いされてるのに絶望した!! (w  ( CV: 糸色望先生 )

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2007年9月17日 (月)

「進化論」 の進化

科学の新理論なんてものは、 一人の天才がまったくの無から全てを生み出す、 なんてことは滅多にあるもんじゃありません。
たいがいは、 先行する研究がたくさんあって、 その積み重ねの中から生まれてくるもんです。
…っていう、 科学史を少しでもかじってみれば明白なことが、 まるで知られていない向きもあるようで。

たとえば進化論。
チャールズ・ダーウィンが 「種の起源」 を出版するまでは、 「進化論」 ( Theory of evolution ) のような考え方はこの世に無かったのか?
上城誠氏の論考  『「進化論」 をめぐって』 ( 新・古代学 第1集 1995年 新泉社 ) を主な情報源として、 年表形式にまとめてみました。

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2007年9月 3日 (月)

[地球へ… 第21話] うちてしやまん

Terra21_zel01a ゼル爺さんのセリフ 「撃ちてし止まむ~!!」 が分からなかったとか、 聞き取れなかった、 っていう声がチラホラと。
ここはひとつ、 年寄りの出番かのぉ… f(^^;

今から 60年ほど昔、 日本が戦争をしていた時に、 叫ばされたスローガンでして、 その時のルーツは 1943年 3月 10日 に大日本帝国陸軍省が配布したポスター らしいです。

ってことで、 ゼル爺さんってば、 いったい何百年生きてるものやら (w

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2007年8月29日 (水)

東日流外三郡誌 寛政原本の画像

ミネルヴァ書房刊 「なかった 真実の歴史学 第3号(ISBN13: 978-4-623-04913-4) に、 昨秋発見されたという東日流外三郡誌の寛政原本の写真、 それと、 大正の頃とされる写本と、 昭和38年とされる写本の写真が載っています。

筆跡を見ることにはド素人の ( もちろん筆跡鑑定なんぞ出来る筈はない ) 私の眼には、 4つとも別人が書いたように見えます。

ちなみに、 昭和38年写本は和田喜八郎氏の筆跡とのこと。
また、 喜八郎氏の娘さんの筆跡が 「『新・古代学』 古田武彦とともに 第1集 ( 1995年 新泉社 )  に掲載されています。

「なかった 真実の歴史学 第3号」 口絵2 『「東日流内三郡誌 安部小太郎康季 秋田孝季編」 (寛政原本)』 「なかった 真実の歴史学 第3号」 口絵4 『「寛政五年七月 東日流外三郡誌 二百十巻 飯積邑 和田長三郎」 (寛政原本)』 「なかった 真実の歴史学 第3号」 p.15 上『「東日流外三郡誌 三百六十二巻」 (明治写本 - 大正期)』、 下『和田喜八郎写 「東日流外三郡誌」 (昭和38年)』

※ 左から順に、
1. 「なかった 真実の歴史学 第3号」 口絵2 『「東日流内三郡誌 安部小太郎康季 秋田孝季編」 (寛政原本)』
2. 「なかった 真実の歴史学 第3号」 口絵4 『「寛政五年七月 東日流外三郡誌 二百十巻 飯積邑 和田長三郎」 (寛政原本)』
3. 「なかった 真実の歴史学 第3号」 p.15 上『「東日流外三郡誌 三百六十二巻」 (明治写本 - 大正期)』、 下『和田喜八郎写 「東日流外三郡誌」 (昭和38年)』

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2007年8月21日 (火)

光瀬龍 「歴史そぞろ歩き」

光瀬 龍 の著作に 「歴史そぞろ歩き」 (1989年8月発行) というのがあるんだそうです。
多少 SF を読む私ですが、 光瀬氏の歴史ものは 「夕ばえ作戦」 あたりを齧っただけで、 この本はまるで知りませんでした。

ブログ 「孤独な散歩者の妄想」  の 「 『光瀬 龍の 「東日流外三郡誌」 考』 から」 より。

その中に、 『「東日流外三郡誌」 考』 が、 書き下ろしで、 文庫頁約35頁 (p259~p294)で巻末に掲載されている。

光瀬 龍は、 先年八十四歳で亡くなった自分の母親が、 生前しばしば 「東北に長髄彦が来でたつこと、 おらだ聞かされてたもんだ」 と言っていたと書き、 光瀬の郷里の岩手県南部の前沢地方では、 「聞かされてたもんだ」 は、 「教えられていた」 に非常に近い。 と記述している。
そして、 《東日流外三郡誌》 に書かれている事を母親が、 知っていたのを不思議としていて、 生前に詳しく聞いておかなかった事を悔やまれるとしている。

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万葉集の歌に防人は出てこない

ミネルヴァ書房刊 「なかった 真実の歴史学 第三号」 (ISBN13: 978-4-623-04913-4) に掲載されている、 上城誠氏の論考 『「万葉集」 防人歌を問う』 を読んで。

上城氏は万葉集を調査して、 次のようなことが分かったそうです。
・歌の中に 「防人」 という表記は出てこない。
・「さきもり」 と読める表記は、 「佐岐毛利」 などとなっている。
・「さきもり」 は 「崎守」 であろう。
・他に 「嶋守」・「山守」 が、 歌に出てくる。
・「防人」 という職制の中に、 「崎守」・「島守」・「山守」 という役職があったと考えられる。

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2007年5月12日 (土)

高松塚の西壁

北壁の取り外しに続いて、 5月 10日には西壁の一番北側の壁石が取り外されました。

20070511northwestwall この写真は、 修復施設に運び込まれた後。 ( 5月11日午後、 奈良県明日香村の修復施設にて。 文化庁提供。 赤丸や赤色の文字などは、 後から筆者が入れたもの。 )

写真での上面は、 女子群像 「飛鳥美人」 が描かれている、 石室の内面部分。 壁画保護のためのレーヨン紙で覆われていて、 壁画は見えません。

左手前の面は、 隣の西壁石と接していた部分。 この面も、 北壁と同じように、 削り込まれて段が付けられてます。
隣の壁石と噛み合っていたのかどうかは、 取り外し前の映像が見当たらないので不明です。 ( が、 削り込まれた部分とそうでない部分とは、 同じように見えます。 つまり、 同じように漆喰が塗られた上で隣の壁石と接していたように思えますが、 確証はありません。 )

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2007年4月17日 (火)

高松塚の北壁取り外し

今日、 高松塚の北壁が取り外されました

北壁を取り外した様子 (文化庁提供) 画像は、 「担当者らが石室本体から北壁を取り外した様子を映すモニター画面 = 17日午前10時37分、 奈良県明日香村の高松塚古墳 (文化庁提供)」 (部分) に、 マーキング (赤丸) を入れたもの。

赤丸の部分 (2ヶ所) を見るとわかるんですが、 隣の壁と組み合わさるように、 左右の端が削り込まれて段が付けられてます。 石室の壁石がこんなふうに加工されてるとは、 知りませんでした。
こういうところ、 報道では言わないんですよねぇ。

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2006年5月20日 (土)

真脇の巨木柱列は 「灯台」 ではなかった

真脇遺跡の巨木柱列 (正確には列というよりサークル) は、 「灯台」 ではないかと、 ひそかに考えていました。 ( もっとも、 夜には役に立たなかったでしょうけれど。 )

この 5月連休に能登に旅行したとき、 真脇遺跡に寄る機会がありました。 やはり歴史は足にて知るものなり、 です。 実際に遺跡の場所に立ってみると、 そこから海は見えました。 しかし、 http://noto.town.noto.ishikawa.jp/iseki/gaiyou/gaiyou.html に 「三方が山で囲まれています」 と書いてある通りで、 真脇の入り江に回り込んでこないととても見えそうもない場所でした。

ということで、 ひそかに考えていた 「真脇の巨木柱列は 『灯台』 である」 という仮説は間違っていたという結論になりました。 f(^^;

 


200605mawaki01a

遺跡から撮影した写真を添付しておきます。 中央付近やや右の、 円形に盛り土のしてあるあたりが、 ウッドサークルの出土地のようです。 なお、 ウッドサークル出土地あたりからだと、 線路の盛り土が邪魔で海はほとんど見えません。

 

初出: 2006年05月20日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20060520230721

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[メモ] 神武の故郷は筑紫であってはならなかった

※ 単なる思いつきのメモです。 そのうち時間が取れたら、 詳細を書くかもしれません。

日本書紀を作ったときの想定読者には、 唐の皇帝も含まれていたはず。

「日出処天子」 の国書で隋の不興を買い、 その後継である唐に滅ぼされた九州王朝を、 近畿王朝は目の当たりにした。 その唐に不興を買うような国史は、 絶対に世に出すわけにはいかぬ。 神武の故郷が筑紫であったことは多くのものが知っているし、 古事記にもそう書かれた。 しかし、 それでは近畿王朝は九州王朝と同源であることを公表することになる。 それはまずい、 唐の不興を買うやもしれぬ。

こうして、 九州王朝の存在を抹殺するだけでなく、 日本書紀は神武の故郷も宮崎へと書き換えることとなった。

 

初出: 2006年05月20日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20060520224351

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2005年8月20日 (土)

倭≠大和

倭≠大和、 正確に言うならば、 「倭」は必ず「大和」のことであるとは限らない、 というしごくあたりまえのことです。 そのあたりまえのことが、 例えば日韓歴史共同研究報告書でもないがしろにされてしまっています。

そこで、 倭≠大和 の例をいくつか挙げておこうと思います。

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2005年8月 8日 (月)

弥生時代、全国で絹の服を着ていたわけではない

国立科学博物館にて 『特別展 「縄文 VS 弥生」』 というのをやっているそうです。 → 国立科学博物館国立歴史民俗博物館, 読売新聞社

見に行っていないので、 実際にどのような展示・解説がなされているかはわかりませんが、 NHK で紹介された内容が気になったので、 書いておきます。

NHK の放映では、 「弥生時代の服は、 絹で出来たものもありました」 というような紹介のされ方をしていたように記憶しています。 これを 「弥生時代の人は…」 と受け取った方は居ないだろうと思います。 おそらくは 「弥生時代の偉い人の中には、 絹で作った服を着ていた人もいた」 くらいに理解されただろうと思います。

ところで、 NHK ではとくに注釈を付けていませんでしたから、 多くの人は 「日本列島中の弥生時代の偉い人は…」 と受け止めたのではないでしょうか。 しかし、 これは出土事実に反します。 絹製品が出土した弥生時代の遺跡は、 いまのところ九州北部にしか無いのです。 → 絹のデータベース (邪馬台国の会), ( 詳しくは、 布目順郎著「倭人の絹」を参照。 )

出土しているモノに照らして考えるならば、 絹製品は 弥生時代:九州北部 → 古墳時代:中国・近畿地方へ伝播 したことになるでしょう。 弥生時代にあっても、 日本列島の中での地域格差はあったのです。 すなわち、 「弥生時代、 九州北部の偉い人の中には、 絹で作った服を着ていた人もいた」 というのが、 おそらくは正確な表現でしょう。

 

初出: 2005年08月08日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20050808133328

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2005年6月12日 (日)

日韓歴史共同研究報告書: 好太王碑: 臣民にしたのは誰か?

日韓の古代史を考える史料として最大のものは、4~5世紀のことを記した高句麗の広開土境好太王碑でしょう。 「日韓歴史共同研究」でも、大きく取り上げられています。 その中でもっともホットな議論は、永楽5年項の中の辛卯年記事です。

まず、石碑に刻まれたその部分を掲載しておきます。 これは永楽5年項の末尾にあたります。
※ ここで [] 付きの文字は、読みにくくなってしまっていて人によって判読にブレのあるもの。 また、□は、読めなくなってしまっている文字です。 なお、新字体に直してあります。

百残新羅旧是属民由来朝貢而倭以辛卯年来渡[海]破百残□□新羅以為臣民

※ 「百残」は、「百済」のことをおとしめて書いている (卑字) と思われる。

この石碑は、高句麗の王様の死後に、主にその功績を称えるために作られたものです。 ですから、主語無しに「百残新羅旧是属民」 (百済と新羅は、もとは属民であった) とあるとき、どこに属していたのかといえば「高句麗の属民であった」ことになります。 また、問題の一文は「永楽5年」で始まる段落に書いてありますから、永楽5年 (西暦395年) に王が行った事績を称えたものであるはずです。

高句麗中心に書かれているのですから、前のほうに出てくる「朝貢」も、朝貢先は書かれていませんが当然高句麗です。 「朝貢」までを訳せば、「百済と新羅は、もとは属民であったので、高句麗に朝貢してきていた」となるでしょう。 ここの解釈には、日韓で相違はありません。

解釈が分かれるのは、「而倭以来辛卯年」からです。 まず、明治以来の日本側の解釈は、おおむね次のようです。

「辛卯年(391年)に、倭が海を渡ってやってきて、百済・□□・新羅を破って、倭の臣民にしてしまった」

しかし、好太王の功績を称えているはずの碑文としては、ヘンでしょう。 永楽5年 (395年) の治績として、過去の辛卯年 (391年) にあった他国の侵略記事を載せるとは。 (もちろん、他の年次には、そんな記事はありません。)

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2005年6月11日 (土)

日韓歴史共同研究報告書

3年間かけて行われていた日韓歴史共同研究の報告書が、 6月10日に公開されました。 → http://www.jkcf.or.jp/history/index.html

古代史の部分を斜め読みしてみて思ったこと。 「これを『共同研究』というのか? これでは、 同じ教室で勝手に論文を書いていただけではないか? f(^^;

結論が一致することは、 そう簡単にはありえないとは思っていました。 しかし、 せめて、 「資料に対する両国の解釈はこれこれ相違している。 それは、 それぞれの根拠がなにがしであるからである」 というような、 問題点を明確にしてくれるような報告書を期待したのですが。 日本と韓国で別々に論文を、 それも旧来のままの内容から半歩も踏み出していないようなものを掲載されるとは… orz

もし読んでみようと思った方は、 先に座談会記録を見たほうが面白いかも。 論文と違って、 それなりにやりあってるので、 相違点が分かりやすいと思います。

 

初出: 2005年06月11日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20050611232309

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2005年5月24日 (火)

礼を争い、朝命を宣べずして還る

客人が来ているときは、その顔を立ててあげるのが礼儀だと思っていたのですが。 どうもそうではなかったようで。

  • 2005/5/17 中国 呉副首相 来日
  • 同/20 日本 小泉純一郎首相 参院予算委員会にて、 靖国神社へは「個人として参拝している」、 「ヒトラーの墓参りをするのとは全く別の問題だ」などと発言。 同16日の衆院予算委での 「いつ行くかは適切に判断する」 との発言とあわせて、 靖国神社への参拝をやめる考えのないことを強調した。
  • 同/23 呉儀副首相 小泉純一郎首相との会談を中止し、 急遽帰国。
  • 同/24 日本 自民党 亀井静香元政調会長 講演にて、 会談を中止して帰国したことについて 「まことに失礼だ」 発言。

客人の顔を立てるどころか、 面子を潰すようなことをしておいて、 怒った客人が椅子を蹴って帰ってしまったら、 無礼者呼ばわり。


今回のいきさつの評価は置いておいて。 思い出したのが 7世紀前半にあった事件です。

西暦631年、 当時の唐の国 (中国) から日本列島の倭国 (日本国ではない) に、 外交官がやってきました。 そのときのいきさつが旧唐書の倭国伝に書かれています。

遣新州刺史高表仁 持節往撫之 表仁 無綏遠之才 與王子争禮 不宣朝命而還

[試訳]
(皇帝は、) 新州の刺史・高表仁に 「(外交官の印である) 節」 を持たせて (倭国に) 派遣し、 なだめさせようとした。 ところが表仁に外交の才能が無く、 (倭国の) 王子と礼儀を争い (= 面会の場でどちらが上かなどと、体面に固執し)、 朝命 (皇帝の意思) を述べることなく帰ってきてしまった。

その17年後、 倭国は間接的に (新羅経由で) 唐に国書を送ったことが旧唐書に書かれていますが、 その記事を最後に、 旧唐書から倭国は消えてしまいます。 (余談ですが、 旧唐書では、 そのあと日本伝に続きます。)

大国の面子を要求する唐と、 国土は小さくとも国力は強大だと自負している倭国。 名目上の上下関係を要求する唐の外交官と、 客人に対しても自分の考えを押し通す倭国の王子。 そして、 話にならんと帰ってしまった唐の外交官。 なんだか今回のてんまつに似ている気がします。

7世紀、 このあと倭国と唐は戦争に突入し、 30年ほど後の白村江の戦いで倭国は敗北することになります。

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2004年7月 4日 (日)

[つっこみ] 老農 船津伝次平

川俣晶の縁側 で 船津翁の碑 を紹介しているところで、 『近代の農業に貢献した人……らしいのですが案内板の文章も分かりにくく、 ピンと来ませんでした。 「船津翁の碑」として google で検索しても3件しか出てきませんし』 と嘆いておられます。 ので、 ぐぐってみました。

"船津" & "飛鳥山" あたりで検索してみると、 フルネームは 船津伝次平 か 船津伝次兵衛 であろうと分かります。 船津伝次平 かと、 あたりをつけて検索してみると…
Google で "船津 伝次平" を検索する
…88件ヒットしました。 たぶん、「伝次平」でいいのでしょう。

ちなみに、 ヒットした最初のページ http://miyama.uncle.or.jp/karuta/jomo/jro.html によれば、

和算で培った科学的精神とおう盛な研究心で伝次平は、 太陽光線で温められた石を育苗に利用した有名な石苗間育苗法をはじめ、 さまざまな農業技術を考案。 また、 弱冠二十七歳で名主となり、 赤城山ろくの原野に松を植林するなど、 幅広い分野で卓抜した指導力を発揮した。 こうした活動が、 殖産興業政策を推進していた政府の目に止まり、 駒場農学校 (現在の東大農学部) に招かれることになる。

農学校を経て農商務省の巡回教師となり、 沖縄を除く全国各地で農業技術について講演。 「明治の三老農」の一人として全国的に知られたが、 伝次平は終生、 上州の一農民としてのスタイルを守り続けた。

…という人だったようです。


( しまった! まるで古代史じゃないや f(^^; )

 

初出: 2004年07月04日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20040704212011

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2004年6月 6日 (日)

1996年にはデータが公表されていた --- 弥生時代の始まりは紀元前10世紀

昨年末、 マスコミが大々的に報じて有名になった「弥生時代の始まりは紀元前10世紀」説ですが、 同様な C14年代測定法 (AMS年代測定法は、その一つ) によるデータは、 遅くとも 1996年には公表されていたそうです。

埋蔵文化財研究会が 1996年8月に高槻現代劇場で開催した「考古学と実年代」と題する研究集会にて、 報告されたデータに含まれていたとのことです。 このとき、 発表要旨集と資料集が配布されたそうで、 その資料集に載っていたデータの一部が、 <Amazon> 太宰府は日本の首都だった ― 理化学と「証言」が明かす古代史『太宰府は日本の首都だった ― 理化学と「証言」が明かす古代史』 (内倉 武久著) という本に引用されています。 孫引きになりますが、 さらにその一部をここにも引用しておきます。

遺跡 研究者推定 14C測定値
菜畑遺跡 (佐賀県唐津市)
・植物遺体 弥生前期初 (夜臼、板付1) 前1010±90年
・植物遺体 縄文晩期末 (夜臼単純) 前1280±100年

 

初出: 2004年06月06日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20040606143746

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2004年6月 4日 (金)

[本] 弥生時代の実年代 ― 炭素14年代をめぐって

<Amazon> 弥生時代の実年代 ― 炭素14年代をめぐって 弥生時代の実年代 ― 炭素14年代をめぐって (春成 秀爾・今村 峯雄【編】)

昨年、 加速器質量分析法 (AMS) によって、 弥生時代の始まりは紀元前10世紀頃だったことが検証されました。 (→ 弥生時代、始まりは紀元前10世紀 )
この本は、 その年代測定に関する論文集です。

以下、 紀伊國屋書店 BOOK/WEB から引用。

弥生時代の実年代 ― 炭素14年代をめぐって

「弥生時代」は五〇〇年も古かった? 学界に衝撃を与えた炭素14年代測定と年輪年代による弥生時代の実年代論のすべてを収録。

1 弥生時代の実年代 (韓国・九州・四国の実年代; 近畿・中国の実年代 ほか)
2 炭素14年代測定の現状 (AMSによる炭素14年代法; 年輪と炭素14年代 ほか)
3 炭素14年代をめぐる議論 (研究史と展望; 「2つの事件」と近畿 ほか)
4 東アジアの実年代 (東アジアの動静からみた弥生時代の開始年代; 東北式銅剣の成立と朝鮮半島への伝播 ほか)
5 今後の課題 (世界レベルの年代研究へ; 弥生時代の実年代―過去・現在・将来)
付録 用語解説

なお、 編者の春成氏・今村氏は、 Web にも書いておられます。 このあたりが代表的なところでしょうか。
2003.7.25. 歴博特別講演会配布資料 弥生時代の開始年代 - AMS 年代測定法の現状と可能性 -
※ 末尾の用語解説が、 ありがたいです。

 

初出: 2004年06月04日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20040604233757

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2004年3月28日 (日)

[本] 法隆寺は他所から移築された。 では、どこから…?

法隆寺は、 最初から今の場所に建てられたのではなく、 じつは別の場所に建っていたものを移築したものだった、 という説が 10年以上も前に出ています。

法隆寺は移築された ― 大宰府から斑鳩へ (新版)
米田 良三 (著)

※ もとは1991年に発行

この本の第I部、 ざっと50ページほどを読んでみれば、 移築された (少なくとも、 一度分解されてから、 再び組み立てられた) ことを疑うのは難しくなるでしょう。

しかし、 米田氏のこの本の第II部で示されている 「観世音寺から」 移築されたのだ、 という推論は、 納得のいくものではありませんでした。 なぜなら、 観世音寺の伽藍配置だけを論拠としている以上、 同じ伽藍配置を持つ寺ならば、 どこでも移築元になりえるのに、 観世音寺でなければならない理由が示されていないように思うからです。

では、 どこから…?

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2004年1月 8日 (木)

[本] 江戸の町並み景観復元図

<Amazon> 江戸の町並み景観復元図―御府内中心部古代史じゃないけど、 面白そうな本。

http://www.naigai-map.co.jp/hanbai/edo.htm
> 江戸の町並み景観復元図
> -御府内中心部-
http://www.naigai-map.co.jp/hanbai/naigai.html
/*
江戸の浮世絵師鍬形惠斎や安藤広重らの"江戸のパノラマ図"以来、初めて完成した本格的《平成版江戸パノラマ図》
町並み景観図と町割区画図を重ね合わせて見る趣向をこらした造本。
*/

 

初出: 2004年01月08日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20040108220004

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2003年12月21日 (日)

[NEWS] 弥生時代、始まりは紀元前10世紀

http://www.asahi.com/culture/update/1220/008.html (リンク切れ)
> 弥生時代、始まりは紀元前10世紀 歴史民俗博物館発表

 弥生時代が北部九州で幕を開けたのは紀元前10世紀、四国や近畿などでも従来考えられていたよりも早く弥生文化が広がっていたことを裏付けるデータが得られたと国立歴史民俗博物館(千葉県佐倉市)が20日、発表した。加速器質量分析法(AMS)を用い、弥生の始まりが従来より500年さかのぼる可能性が強いと5月に発表した新説を検証したものだ。

 発表によると、北部九州での始まりは、先行する縄文土器や、同じ時期と考えられる韓国の土器の測定から裏付けられた。四国では前810~前600年ごろ。近畿ではデータにばらつきが大きく絞り込めなかったが、四国と同様、北部九州に遅れて始まったと見られる。

 開始期は地域によって違いがあったのに対し、弥生中期への移行は、九州、中国、近畿とも前4世紀ごろでほぼ同じだった。同館の春成秀爾教授は「土器型式の順序や、韓国の土器の年代測定結果とも矛盾はなく、新しい説はより確実になった」と話している。

(12/20 21:56)

検証の結果、やはり間違いなさそうだ、という発表ですね。
これはすごいことです。
※ ちなみに、 5月の発表に関する記事はこちら。 → 稲作伝来、 500年早まる 国立歴史民俗博物館が発表

九州北部と大陸・半島の年表は、 歴史民俗博物館の説ではこうなります。
http://www.rekihaku.ac.jp/kenkyuu/0725/nenpyou.html
> 弥生時代の開始年代- AMS年代測定法の現状と可能性

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2003年12月 2日 (火)

[メモ] 14C資料@名古屋大学年代測定総合研究センター

http://www.nendai.nagoya-u.ac.jp/ja/graph.html
> 年代測定総合研究センターのパンフレット ( PDF形式 )
> P.11 土器付着炭化物の 14C 年代測定による土器の編年
/*
この土器付着炭化物の 14C年代 12,680 ~ 13,780 [BP] は,14C年代-暦年代較正曲線を用いて, 実際の年代に換算すると 15,320 ~ 16,540 [cal BP] と得られます。
*/

※ cal BP: calibrated calendar years before present
較正済みの、 現在 (1950年) から遡った年。

 

初出: 2003年12月2日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20031202130250

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2003年11月30日 (日)

日本古代史入門

私は学校では、 歴史なんて大嫌いで、 工学部に行った人間です。
なぜか、 30歳過ぎてから、日本の古代史にハマリました。 といっても、 いまだにド素人なので、 「下手の横好き」です。 (笑)

さて、 日本の古代史を語ろうとする人には、 避けて通れない一冊があります。
古田武彦氏の 「『邪馬台国』はなかった」 という、 もう30年以上も前に出版された本です。 この本で、 「邪馬台国」の場所は、 九州北部だと論証されました。
そうではなく、 三国志の魏志倭人伝に書かれている邪馬壱国は、 九州北部以外に存在していたのだ、 と主張したい人は、 この本を論理的に論破しなければなりません。

なお、 この本は、 いまでも文庫で入手可能です。

 

初出: 2003年11月30日
http://akari.kabe.co.jp/magsite/Content.modf?id=20031130235452

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